ground bridal communication
グラバコ「街とアートの結婚式」

"www――wind, wound, winding"
「結ぶこと、結ばれること、そしてそれがつづいていくこと」

 2004/5/23
 定禅寺通り・ 一番町四丁目商店街(仙台市)


展示までに考えたこと

 

2004/4/18 sun

 世界唯一の紙コップアーティストLOCOさんが、5/23に仙台で「結婚式」をするという。これはむろんホンモノの結婚式ではなく、氏が全国で行っている一連のアート・プロジェクトで、そのおり、同時に「結婚式のお祝い」というかたちで、30組ほどのアーティストが作品を街中に展示するのに出展する予定。
 私は以前、毛糸の展示のおり、LOCOさんの糸でんわを毛糸に併設してもらおうと、その作品にこめられたお話をいろいろ聞き、たいへん感銘したのだが、そのおりにとても心に残ったのは、糸でんわが実際に聞こえないのではだめだという、当たり前かもしれないが、作品の「機能性」についての真摯な態度だった。それは強く、「そうなっていることにしておこう」というものではないのだった。
 一方、「結婚式」の方はどうかといえば、実際に見たわけではないのでもしかしたらちがうかもしれないのだが、これは逆に、肩すかしのごとく「そうなっている」というかたちそのものの提示ではないだろうか。つまり、結婚式という形式が喚起する「結婚なるもの」、結婚という制度や伝統といったものすべてを、結局は糸でんわが「聞こえなければだめだ」という態度でもって、裏側から照らし出そうとしているのではないのだろうか。


4/21 wed

 LOCOさんの作品は、そのほとんどが「困難さ」みたいなものをその内にもっていると思う。世界唯一の紙コップアーティストなので、ほとんどが紙コップ(一部ビニールコップ)を用いたもので、その作品をあげると、糸でんわ、コップ人間(ビニールコップでつくられたヘルメットのようなものをかぶるパフォーマンス)、LOCO結婚式(コップ人間が結婚式を演じるパフォーマンス)、コップめがね(紙コップでできためがねをつける)、等身大糸でんわ(筒状の布を糸でんわに見立ててそれをくぐるもの)といったことになるのだが、あまりよく聞こえない(糸でんわ)、かぶるとほとんど視界がとざされてしまう(コップ人間、コップめがね)、入ると何も見えないし、動きもとりにくい(等身大糸でんわ)と、そのどれもが困難さ、スムーズでない状況を故意に作り出している。
 しかしそれが逆に安易な「不可能さ」をあげつらねようとしているのでないことに注意するべきだろう。おそらくその「困難さ」は、当たり前の、日常的な、生きていく上で当然の「困難さ」であって、何かをしようとするときには必ずわれわれが感じることなのだ。むしろ、そうした「困難さ」が失われていることにこそ、奇異を感じるべきなのだろう。
 ところで、LOCO結婚式に限って言うならば、私にはそれが「ブルカ」を連想させる。むろん、もしそうしたことを言いたいのなら、参列者の中、花嫁だけがコップをかぶればいいわけで、おそらくそうした意図とはちがうのだろうが、もしそんな作品だったらと想像してみる。


4/27 tue

 「グラバコ」への出展作は、結婚をテーマにしたものにしようと思う。素材としては、毛糸を使いたいと思う。
 これまでの毛糸の展示では、私は「結ぶ」ということについて一面的にしか光を当ててこなかったように思う。それはつまりごく普通に想定されるような明るい、世界平和的なもので、しかし「結ぶ」ということにはもっと複雑な関係性、端的に言えば束縛や拘束といった面があるはずなのだ。私はあえてそうした面にはふれず、楽観的にそれらを展示してきたと思う。


5/12 wed

 グラバコのための作品制作をはじめる。2週間くらい前に依頼があったのだが、私にしてはめずらしくなかなかプランがひとつにまとまらず、やっとできた案は、もしかしたらあれもこれも的なものになってしまったかもしれない。でもつくっていく中で、またどんな「発見」があるかわからない。そこに「つくる」意味があるし、「見る」意味があると思う。
 何かを立案し、企画するというのは、どこか超越論的な立場、みたいなものに似ている気がする。誰しもがそれを上からながめて、それについて共通の言葉で語り合うわけだ。「つくる」のは、そういう意味では独我論的なものだろうか。まるで私にしかわからない何かについて語りたくなったり、何よりそれは行為としてのそれであって、鑑賞でも批評でもなく、それを生きている、という感覚に、常に後から見ればの視点でいえば、満たされている。そしてできあがったものを「見る」こと。その制作という行為を経ずして、それをあれこれと批評することは、それをつくった者からすればいつもどこか「ちがう」ことになってしまうのだろうが、しかしその「見る」という行為を待たずしては、作品は成立しないと思う。むろん、誰にも知られないところで何かをつくっても無意味だ、とかいうことを言いたいのではなくって(
もしそうなら、つくった者こそ最初の見る者であるという意味では作品は常に成立してしまう)、「つくる」視点から「見る」視点へと移動しないうちには、それは作品にはならないということ。だからといって、それが作品にならない、つまりは制作過程にあるということが、作品よりも劣るということではなく。逆にそれが終息することでそれは作品に「なってしまう」というほどの意味をこめて。
 ダンボールの箱の内側をテンペラで白く塗ろうと思うのだが、あと10日しかないから、もしかしたら見る人はすごくくさいかもしれない。


5/14 thu

 私は、「見る」ということが、「民主主義的」な何かを意味している、ということを言いたいのではない。何かを企画立案したり、制作するという立場がもつ「特権性」に対して、それを無化するためにだけ、平等であろうとするようなものならば、そんなのはばかげている。どうしてもこうしたものをつくりたいと思い、それを見たいと思い、そうしてそれをつくっていて、それが「本当に」それとかかわることであると、そのように言いたくなるという、それとまったく同じように、私にはそう見えるし、それはほかの誰にも「本当には」わからない、「本当に」見ているのはこの私以外にはありえないという、その「特別さ」とという意味では、比較対照された特権性や平等化などは問題にもならないし、ばかばかしいだけだと、そういうことが言いたい。逆に言えば、いわゆる「見る/見られる」関係性とか、そこから導き出される「特権的」な立場など、まったくありふれたこと、あまりにも当たり前のことなのだ。そして、そうした視点に立ったときではないだろうか。遠い国で起きていることや、私の日常の外で起こったことを、私が「見る」ことに「意味」があるのは。そして、ただ「見る」ことだけが、それを支えるのではないだろうか。それは何も禁欲的なことを言っているのではないし、ロマン主義的なことを言っているのでもない。「だから」何か私にできることをしたい、というのは、そうした、私が「見た」こととは、全く切り離して考えるべきことなのではないだろうか、ということだ。つまりそれを自分に引きよせて、自分の在り方、自分がそれを「見た」ということを肯定的にとらえるための道具にしないために。


5/16 sun

 中本誠司現代美術館ではじまった「LOCOMOTION出版記念展in仙台」 を観る。出版に至るまでの下書き原稿やゲラ刷り、LOCO結婚式の巨大な記念写真や糸でんわのインスタレーションのほか、紙コップをかぶってのさまざまな場所でパフォーマンスが、パソコンとプロジェクターによって美術館の白い壁にうつしだされる。その映像を見ていて思うのは、紙コップで覆われた、いわば「おかしな」人を相手にしたとき、思わずもれる笑みや苦笑といったものが、当たり前とはいえ、とてもその場にふさわしいということ、逆に紙コップをかぶった人相手に「まじめ」にふるまうこと、相手の「奇行」を「奇行」と認めないことが、とても不自然で、それこそ「おかしな」ものに感じられることだ。そうした態度をとる理由のひとつは、相手にあからさまな奇異の目を向けることが失礼であると思い、あたかも相手と自分の間にはどのような差異もないように振る舞うことが、何か暗黙の礼儀作法のひとつであり、平等心のあらわれであるというところにあるように思う。というより、もし私がそうした振る舞いをするとしたら、それはそういう理由からだろうと思う。しかし、やはりそれこそ奇異で「おかしな」振る舞いなのだと思う。


5/20 thu

 出展するものができあがる。白い50cm角の立方体形のダンボールに何か作品を展示し、訪れた人がそれを開けてみる、という趣向なのだが、私は中も白く塗ろうと思い、テンペラで白く塗ってみたのだが、メディウムである卵がくすんだてかりをはなって、思いもかけず硬質な感じが出た。それは毛糸の質感と対照的でかえってとても似つかわしい。日曜には台風も通り過ぎるそうだし。


5/25 tue

 日曜に行われたLOCO結婚式とグラバコのアート・イベントは無事終了。当日は曇天の下、ビニールのカップをかぶった新郎新婦と参列者たちという、実に非現実的な風景を目の当たりにすることに。「ゼンゼン意味わかんない」と口走る女子高生がいたりして、とても素直な感想だと思った。
 私は途中、妻とともに、はじめて仙台市内を回る周遊バス「るーぷる仙台」に乗り、仙台の街を一周する。ひとに聞いてもやはり地元の人は乗らないらしい。コースはいつもの見慣れた風景で、どこもかしこも私が自分のところのチラシをポスティングしてまわっている地区である。

 

 

 

 

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