Yarn Project

plans with fleece
原毛をつかったプラン


 

2004/12/1 wed

 最近、毛糸を原毛から紡ぐことを作品化しようと考えている。たとえば、会場に雲に見立てた羊毛を配置し、会期中に私がそれを紡ぎ機で紡いで毛糸にし、いつもの毛糸のインスタレーションをつくる。あるいは原毛の雲を天井からつるための毛糸を紡いでもよい。雲から毛糸を紡ぎ出す、とかそういった感じで。

12/7 tue

 羊を飼い、その毛で毛糸をつくって毛糸のインスタレーションを行う。
 12/5の朝日新聞朝刊に、河原の雑草処理に羊を飼っている「アダプト・プログラム」の記事が載っていた。そうした活動と連携してアートをつくることができないだろうか。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

12/14 tue

 注文していた羊の原毛が届く。気持ちよく晴れてもいたので牧草地へそれを持って行き、広げてみる。まるで羊のかたちをしたそれは、ほのかに動物のにおいがして、さわると手にそれがうつる。たいへんおもしろい。何枚か写真を撮り、すこしスケッチをして(こちら)帰る。

 思うに、においというのは、とても立ち遅れているというか、関心のうすい分野ではないかと思う。以前、インターネットはにおいがしない、ということについて書いているサイトがあって、とてもはっとさせられたことがある。また、公募展の応募要項などで、よく「腐ったりにおいを発しないもの」という文句を見たことがある。おそらくそれは、においがあまりにダイレクトに感覚に訴えるものという面だから、ということがあるように思う。つまり、視覚的なものは目を閉じれば見ないですむし、音もある程度耳をふさぐことで聞かないようにはできるけれど、においをかがずにすむには、本当にその場からたちのく以外に手はないように思う。そうしたリアリティの強度が、においを囲い出してしまうのではないか。
 できれば私はこの羊の毛を、羊のにおいとともに展示できないかと思う。これまで使ってきたアクリルの「毛糸」と、あまりにも対照的なそれ。羊がそれとともに過ごして来たにおい。
 メグレ警視シリーズで知られるジョルジュ・シムノンの小説に『雪は汚れていた』という作品がある。ナチス占領下の北フランスの町で、売春宿を経営する母の家に住む若者が、せつな的な理由からナチス将校を殺し、逮捕され、拷問を受けて死刑になるというものなのだが(というかこういうあらすじ自体はこの作品のポイントではないのだが)、若者が監禁されている間、自分のにおいに気づき、それを甘美なものととらえ、なぜそれに今まで気づかなかったのだろう、という一節がある。全然わからないという人もいると思うけれど、においにはそういう面がある。
 数年前、毎日のように牛舎へ通って水彩を描いていた時期がある(このあたり)。通っているうちに、その春生まれたらしい子牛で、比較的もう大きくなっていた子牛が、私が行くたびにしっぽをふって鳴き声をあげて迎えてくれた。頭をなでるとたいへんうれしそうで、私の手をその下でなめてきた。牛舎はやはりそれなりの動物のにおいに満ちていて、スケッチから帰るとそれが服にしみついているのがわかる。そしてそれはどうしようもなくその場所のもの、私の絵などが描くものよりもずっとリアルなそれなのだ。
 いたずらに不快感をあおるようなにおいには、説得力もなにも感じられないだろう。しかし、それが色や線、音と同じようにリアリティをもった、もうそれがないことなど考えられないものであるなら、それを理解することができるのではないか。そしてそこへ踏み込むことは、「私の「世界」」を広げることではないだろうか。
 アトリエに戻ると、空に羊雲が出ている。

12/15 wed

 羊について調べていると、こういうページこういうページに出あった。羊を家畜として飼い始めたのは牛よりも早く、アフガニスタンを含む西アジア地方とのこと。やはりアフガニスタンには行かなければならない。

12/25 sat

 すこし前に購入した原毛の写真をトップページに掲載する。とにかくおもしろくて、たいへん想像力をかきたてられ、送っていただいた牧場にほかの原毛についてやそのほかもろもろの質問事項を書いてメールしたのだが、もう10日ほどたつが返事が来ない。何かあやしいと思われたのかもしれない。

 

 


原毛が届く。のぞきこむゴル(見えるだろうか)


牧草地へもっていく



まん丸にしてみる

 

 

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