Lifetown Art Tour 2nd TRIP 参加作品
produced by "GROUND"

ことのはの杜
The Forest of Words

10/5 仙台サンモール一番町商店街


展示までに考えたこと

 

展示風景

2003/8/26 tue

 子どもの頃に遊んだそれは、「いつ」「どこで」「だれが」…というフォーマットが決まっていて、書かれたそれを任意に取り出して並べると、「おかしな」文になるというものだった。しかしなぜそれを「おかしい」と思うのか。というより、なぜそれが「おかしい」とわかるのか。それは最初から、「おかしい」ものとして在ったのではないのだろうか。
 しかしたとえば、すでにあるいくつかの文をさらにいくつかに分け、それを最初の文を知らない人に並べてもらうとしたら、それは上の遊びとは全く異なるものだろう。
 文法的な「おかしさ」といったものではもちろんなく、たとえば、最初の文が「正しい」文で、できあがったものはそうではないのか、といったたぐいのことに私は興味がある。もちろん、こうした問題の立て方をしたら、それはそうではない、と言っているようなものだが。
 さる人が、子どもが教えたことばよりも確実に多くのことばを話せることについての驚きを表明していたが、それは純粋な驚きとでも言うべきもので、そこに「意味」はない。
 すべての言葉が書き込まれた図書館とか、ある人の人生についてのすべての事柄が記憶された装置とかいったものがあれば、それを「世界そのもの」とか「その人自身」と呼ぶかと言えば、そんなばかげた話はないだろう。
 しかしそうしたことへの誘惑、あるものに「意味」を吹き込みたい欲求に駆られる気持ちはとてもよくわかる。そうしたことまでもが、すべて織り込み済みのことなのだろう。


9/1 mon

 「いつ、だれが…」という文の断片を作って、それを並びかえるという展示をしようと思って試作しているのだが、どうにもうまくいかない。たぶん、子どもの頃にやったそれの印象があまりに強いのだろう。そもそもすでにある文を断片化するのはやめた方がいいのかもしれない。つまり、私はそれに意味を与えようとしているのだろう。


9/11 thu

 色とりどりのことばが入った旅行かばんが、通りに落ちている。見ると、そこからぬきだされたことばが、あちらこちらにはりつけられている。かばんにはこれも色とりどりの字で書かれた荷札が、無数に結びつけられていて、このかばんがこれまで旅してきた場所をそれとなく示している。
 というのはどうだろう。「ことばの杜」。杜の都仙台と、私がやっている「杜の教室」にもちなんで。
 また、ある場所では、それぞれ「いつ」「だれが」「どこで」…が記された6枚×6枚のカードが、壁にはりつけられたビニールの中に入れられていて、訪れた人がそれを入れ替えることができるのだが、入れ替えても、文法的にも意味的にも問題がない(ものを作る)。


 

9/20 sat

 来月5日、Lifetown Art Tourの2回目が行われるサンモール一番町を歩いていると、宮沢賢治が命名したという「光原社」の前でふと足がとまる。「光原社」は盛岡に本店があって、とてもすてきなたたずまいなのだが(以前行ったときのようすはこちら)、仙台にも2店舗あって(こちら)、サンモールには「せんだーど」(仙台のこと)と呼ばれる店がある。ショーウィンドーにはとてもすてきな朱塗りの中国ものの箱があって、そのとなりにはまたどこのものかわからないが、皮をはった小さな太鼓とばちが置いてある。私はふと企画していた展示に息が吹き込まれるのを感じる。この朱塗りの箱に、宮沢賢治の言葉を書いた無数のカードを入れて、このままディスプレイしてもらったらどうだろう。隣の太鼓は、言葉が本来的に音であることを暗示している。それが箱から抜け出して来るようなイメージまで浮かぶ。向かえにある、つぶれてしまった回転寿司屋さんが、ちょうどベニヤ板でおおわれているので、ここに「並べ替え可能な文」や「好きな文字を書いてください」を展示してはどうだろう。箱から抜け出した言葉はやがて、意味と構造からも脱して、無意味な単なる音と化していくだろう。むろんそれは直線的なそれではなく、再びもとのさやへと戻るようなもの、少し遊んで戻って来る猫のようなものであるにちがいない。


9/21 sun

 Lifetown Art Tourの打ち合わせがある。さっそく昨日浮かんだアイデアを話すが、店舗との交渉は商店街の理事会に話を通してからということで、「光原社」のディスプレイが変わってしまったり、あの箱が売れてしまったらどうしよう、などと一瞬思うが、そのときはそういうことなのだろう。第一、私の案をお店が承知するかどうかもわからないのだし。
 宮沢賢治について、私はあまり詳しく知っているとは言えないのだが、ある程度聖人視されているところがあるように思う。むろん宮沢賢治に限ったことではないが、誰かを聖人に祭り上げようとするのは、祭り上げているその人の理想像を「聖人」に見ようとしているに過ぎない。もし理想像と違っていたら、それが「聖人」の責任であるかのように言われてしまいそうだ。
 以前、何かのテレビで、インドのもう動けないぐらい高齢の高僧で、生き仏みたいな扱いを受けている人を見たことがあるが、彼を拝みにむらがる人々に対し、息もたえだえに「私をたよるな」みたいなことを言っていた。
 誰かを聖人視すれば救われるのなら、そんなに楽なことはないが、しかし心のどこかに聖人を持てば、救われたような気になるのも確かである。しかしその救いは暗い。それは救いのための救いであり、いわば独り言のようなものである。心にもつ聖人は、他者でなくてはならない。なんて、言うのはそれこそ楽なものだが


9/24 wed

 Lifetown Art Tour。先日考えていた光原社の案は、先方がその時期に別の企画があるそうで、おりあいがつかないことが判明。とても残念である。何かあまりぱっとしないものになりそうないやな予感…。


9/27 sat

 サンモール商店街ということろを歩いていると、とあるカフェの前で「言葉の森」という音楽と詩の朗読のイベント・ポスターを発見。開催日は10/4(土)。実は私はその翌日10/5(日)に、Lifetown Art Tourに「ことばの杜」と題したものを出展しようと思っていたので、とてもびっくりする。以前、三上さんがHPで紹介していた「アクエリアン革命」みたいなもの(だったらいいなぁ)と思う。まあ、言葉が「葉」ということばを内包しており、たとえば古今集に言うように、「言の葉」を語源としていることから単純に連想されるものとしてのそれなので、たいした偶然でもないのだが。
 ところで、特許や著作権に限らず、最初にやった人勝ちみたいな狭量でわけのわからない人間主義的な考え方、といより感じ方には、私はナワバリ的なものしか感じられない、というか、感じたくない。むろん私の内にも厳然としてそれはある。でも、あるからといって、それが意味をもつわけではない。ひとが自分と同じことをすることへの嫌悪よりも、ひとと自分とが同じことを感じたり、したりすることがある、ということへの不思議を感じたいと思う。それは実はすごく面白いことではないかと思う。結局私はひとりではない、ということと同じではないにせよ、それに近い何かではないだろうか。「みんな同じだとつまらない」という文は、私にはめまいがするほど無意味に感じられる。つまらないもなにも、私には何から何までひとはちがいだらけに見えてしまう。


10/1 wed

 Lifetown Art Tourに出す「ことばの杜」は、「ことのはの杜」とやや表現をかえてみようかと思う。その方がこの展示を表わす上で、より近い表現に思えてくる。
 これまでに書いた私の言葉を集めて、カード大の紙に印字しているのだが、けっこうそれだけで300ぐらいは軽くいけそう。ほかの方の言葉も引用しようかと思っていたのだが。言葉は、私の中の女性性や男性性、そして中性的なものによる三種類ほどの文体で書かれているのだが、いわんとしているところのほとんどは、どの性別で書いても同じである。しかしだからといって、三種類の文体をとることに意味がないわけではなく、逆に大ありだと私は思っている。


10/4 sat

 はがきは「葉」書と書く。


(展示のあとに考えたこと)

10/11 sat

 たとえば、私が先週展示した「ことのはの杜」について、あんなにたくさん書いてあっても読めない、とか、もっと読みやすく展示した方がいい、たとえばテーマ別に分けるとか、とかいったアドバイスは、おそらく私の作品をもっといろいろなひとに理解してもらいたい、その手助けをしたいという気持ちからのもので、そういった心意気には手放しで感謝したいのだが、残念ながら、アート作品の評価や理解という点においては、それは非情なまでに無意味なことではある。
 たとえば、枯れ野を描くにあたって、枯れ草の一本一本を描いていったとして、「この絵は草の一本一本がていねいに描かれている!」といったことを評価されて、果たして画家は満足するのだろうか。それは画家にとって、自分の作品を完成させるために必要な道筋だったのであり、逆に言えば、そうした道筋に過ぎない。
 私が300の言葉をひねり出したのも、それが言いたいのではなく(言いたいという一面ももちろんあるが)、アート作品としてのリアリティのために、なんとしてもそれが必要だったというだけの話で、300ものことばをひねり出しました! ということが言いたいのではない。そしてそれを聞いて無駄なことだと言うのなら、アートなんてみんな無駄なものだろうというしかない。

 

 

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