紙製の馬 |
|
展示までに考えた事 |
8/12 tue 中本誠司記念アート週間公募展で、これに賞をくださったGROUNDさんから、「かくれんぼアート」に参加するよう声をかけていただく。企画をお送りし、夜、現地を見ながら打ち合わせをする。 8/13 wed ふと車を走らせていて、あまり行かない仙台市博物館に入ってしまう。おそらくは以前にも見ているはずの縄文人がつくった器や埴輪の、あまりのみごとさに驚嘆しつつ、この雰囲気で「馬」をつくろうと思う。それは以前、レンガを作ったときに感じたような、焼き物のもつ質感への驚きとか、感動のつづきで、私はそれを紙ねんどにテンペラを塗ることで表現し、やがてそれがレンガにとどまらず、やがて「枕木」やら「石」やらも同じようにしてつくるようになったのだが(そしてそれからこの作業は頓挫しているのだが)、今回ははにわ風の馬として、それを続行してみたいと思う。 2003/8/14 thu 伝馬制。 土ねんど製の馬。未着彩。 8/17 sun 「伝馬ゲーム」のための馬を作っているのだが、8頭目くらいからやっとそれらしくなってきた。それまでにつくったものはどれも馬というよりは、太ったドラゴンといった感じで、もう小学生の夏休みの宿題並の出来なのだが、慣れてきてもやはり縄文人のはにわなどには遠くおよびもつかない。形はどうもうまくいかないので、あとで色を塗る段に本領を発揮しよう。もともと画家だし。 奥の黒いのはうちの猫(ごる) 8/20 wed 馬の、たてにうすい感じがやっと出てくる。そういえば馬というのは、こんな感じのものだった。絵を描くときには、ものを見て、それをうつしとるようにしてしか絶対に描けないように思うのに、馬を作っている今は、馬など一度も見ずに作っている。 8/28 thu 毎日馬ばかりつくっているので、馬つくり名人になれそうな気がする。昔、古墳に納めるために馬や兵士のはにわを作った人たちは、毎日こうしておんなじものを作ったのだろうか。それともふだんはちがうことをしていて、古墳つくるぞ、とか言われるとはにわづくりをはじめ、はにわつくり名人になる頃にはもういらない、とか言われてちがう仕事へとうつったのだろうか。 着彩されるのを待つ馬くんたち 「かくれんぼアート」。先日、「隠れている」ということに関して、すでに在るものが隠れているというだけでなく、そのようなものとしてありうるものが、いまだ顕現していないという意味合いをも含んでいると思う、という風なことを書いたが(こちら)、この場合、「そのようなものとしてありうるもの」というのは、ありうる可能性すべて、という意味である。しかしそれがありうる可能性であるからといって、顕現する前にその存在がわかっているかどうかはわからない。ある人のすごくうまい例を引くならば、水泳で革命的に速く泳げるフォームが生み出されたとして、それは速く泳げるフォームというあらかじめあったものが発見されたわけではない。もちろんそれはありうる可能性に含まれていたにはちがいないが、それがわかるのは、発見されたと同時のことなのである(そしてそういう状況をひとは、ふつう発見とは呼ばず、発明と言うだろう)。そのようにして立ち現れる「かくれていた」もの。ゲームのルール。そうした意味で、私はこの「かくれんぼアート」という企画を、そしてその「ゲーム性の高さ」を、面白いと思うのだ。 8/30 sat 来週、馬を展示するアーケード街は、仙台でもめずらしく人が多いところで、視線がすぐ前を歩いている人の背中までしか到達しないので、申し訳程度に植えられている植栽の根元にあるはにわ色の馬なんて、目が届かないような気がする。 8/31 sun 馬は今のところ24頭でき、そのうち半数以上が「はにわ色」に塗り終わっている。金箔を貼ったようなのや、クライン・ブルーみたいなのもつくってみているのだが、基本的には素焼きしたような色に塗っている。色を塗る、というのは素晴らしい。それは何かを想像してみるのに似ている。 9/3 wed 気づいたら今度の日曜はもう「かくれんぼアート」を展示する日なのだった。馬はねんどで30体以上作ったのだが、最初に作った5、6体は、馬というよりは太ったドラゴンみたいになってしまったりしたので、結局25、6体を展示することにする。テンペラで色を塗っているのだが、あと数体塗り残している。晴れたら紙製の馬を訪れた人に切り抜いて作ってもらう予定だが、週間予報では日曜は雨。展示場所がアーケードとはいえストリートであるだけに、天気によって雰囲気が大きく左右されるだろう。そこが醍醐味なのかもしれないが。 |