「紙ごみ3キロ=一枚のナン」

ごみゼロ推進宮城大会
GROUNDごみゼロアートラリー

仙台市泉区役所前広場
2004/10/16  10:30-16:00


制作プラン

アフガニスタンを撮りつづけている川崎けい子さんによると、アフガン難民の子どもは食べるために紙やガラス瓶、鉄などのゴミを拾うのだそうです。紙を1日拾って3キ ロほど集めるのだそうですが、これはナン一枚の値段ということ。今もこれほど悲惨な状況かどうかはわかりませんが、そうした事実があったということを、アートを通して表現したいと 思います。 作品の核になるのは、紙くずです。私はこれを、私のアトリエがある東勝山から、会場となる泉中央までの片道4キロほどを往復しな がら拾い集めようと思います。そしてその紙くずの入ったゴミ袋に、川崎けい子氏の写真と、その重量、そしてそれが何の値段に相当するのかを記した、すこしくしゃっとなった紙をはります 。また、作品の入るダンボールの扉には、ゴミ拾いの間にたどった経路を 記した地図、ゴミ拾いをしながら撮影した写真をレポート風にまとめたものをはります。

ごみ拾いウォーク 2004/10/12

展示のようす 2004/10/16

 

 

考えたこと 2004/10/1

 たとえば「ごみゼロ」とかいうことばからは、私はすごく一面的なメッセージ、言ってみればスローガンのようなものしか聞こえない。それは私の問題意識とかリテラシーの問題なのだろうけれど、あるいはもしかしたら、そのようにしか聞こえなくていいもの、というか、そのように聞こえて正解、ハイおしまい、というものなのかもしれない。そしてだからこそ、そうしたあまりに当たり前のスローガンには、何の物語もないし、だからひとをひきつける魅力もない。それは単なる平和主義みたいなものや博愛主義みたいなものにも似ている。誰も反対できない以上、それは意味をなさないのではないかと私には思える。すこし短絡的、感情的だろうか。

 川崎けい子さんによると、内戦下のアフガニスタンでは、仕事のない子どもたちは食いぶちのために、一日ごみを拾い、それを売ってお金にしていたという(「アフガン女性の闇に光を当てる団体RAWA」『世界』2001年12月号ほか)。むろん今もつづいているかもしれない。一日集めた紙くずは3キロほどになるが、これはナン一枚の値段にしかならないという。
 ところで先日、東京都世田谷区の資源ごみ集積所から古新聞を持ち去った古紙回収業者が区の条例違反の疑いで書類送検されたという。これを取材したおとといくらいの朝日新聞の記事を私は読んだのだが、今現在、中国向けなどの古紙需要が増加し、古紙の価格があがっているという。それでいくらくらいなのかと思えば、1キロ5〜8円。つまり3キロの古紙では日本ではナン一枚も買えない。
 むろんそんな単純な比較をして何かを訴えたいわけではなく、何というのだろう、「結論」のようなものを想定してものを見ないと、何とものごとのレベルというのはとらえどころのないものなのだろう。それは豊かであると同時に、あまりにも煩雑である。そしてその豊かさ・煩雑さに、ひとつの見通し・結論をもたずに立つならば、何ともいえない違和感の手ざわりがする。
 私はそんな手ざわりのするアートをつくってみたいと思う。こちらがある対象に対してどのように関係性をもつかによって、ものごとはかわるのだということ、あるいはそのことだけが、意味なるものを決定しているのだということを、いつか作品としてかたちにできないかと思う。それとも逆に、私はそうした作品しか、つくることができないのだろうか。

 


 

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