This Chair ニュー・アート・コンペティションof Miyagi 2006 |
|
![]() |
すべて同じ型から切り抜かれた椅子。しかし、どこかがすこしずつ欠けている、という世界観。 しかしたとえば、あるひとつの椅子に着目すれば、のこりはすべてそれに対して欠けているか過ぎているかになるのだろうか。 「この私」の誤りえなさ、直証性が問題にされるのはどんな時か。それは、私にとってそれはこれこれなのだ、という形式で何かを言い表したい時に使われるのではないのか。それはあたかも「すべて同じ型から切り抜かれた」という前提と同じものをその背後にもっている。 「すべて同じ型から切り抜かれた」ということが問題とされるべきではないのか。それが不問にされている、あるいは隠れている、不在、というのが常態であるということ。イデアの設定・想定。 では「設定」しなければ、すべてが相対的に決定されるのか。たとえば、ある椅子に着目すれば、他は欠けているか過ぎているといわれるのか。 「私=主体」とはどういうことを言い表したいのか。 客観的な事実、俯瞰的な視点というのは「西洋」のもののように言われるけれど、実際それはきわめて「東洋」的なものの言い方ではないのか。「無我」。 見る者の絶対的な立ち位置。しかし見る者は、ただ見ているのではないのか。ただ見ている、などということは不可能である、というその見方、立ち位置こそが問われている。 「この私」がこの私であることがわかるのは、私でない誰かが存在するからだという時。「この私」がこの私であるという直証性だけが問題であるなら、それはこうした仮定に対して閉じている。 「私の席」というものを考えてみよう。それはこの私の直証性とは別のところで動いている問題であると私は思う。それは「この私」をいわば他者に伝えるという問題である。しかも直証的にでなく。おそらくこれが主観ということで問題とされてきたことなのではないか(そして、だから私にとってそれは時に二次的な問題にしか感じられないのではないか)。 だから逆に言えば「この私」の内部は真の意味で「自由」である(それを私はまさに「真の意味で」と言いたくなる)。しかしそれはいわゆる自由とは異質のものだろう。 「これは私だ」というのと「それは君だ」というのが同等のものとして扱われる状況が、つまり直証性とか何とかいうものを経ずに問われる次元が、「これは私の席だ」「それは君の席だ」ではないだろうか。そしてそれは「席」それ自体を問題としているのではない。「まず「席」とは何かが問われなければならない」などと言う人がいたら、それはまったく的外れな言明と言うべきだろう。 ここで「席」はあくまで留保され、「私の」「君の」が問題とされている。もっと言えば、「私」「君」すら棚上げされている。問題とされているのは、「の」という関係性である。 それは関係性の正誤にかかわる問題なのではないか。あるいはそういう問題に過ぎない、と言いたくなる。だとしたら、それは何らかの方法で正誤を決定できるかもしれない(その何らかの方法というものに、深い問題があるかどうか)。 「の」を支えているもの。あるいは「の」によってのみ存在が立ち現れるという在り方。「世界」。 |
|
|