Tanabata Project

たなばたのためのプロジェクト

第一弾 「七月七日に」


この文章は、7/18-23に行われる中本誠司現代アート週間現代アート公募展への出展時に、作品とともに展示したテキストです。  

 

七夕と「願うこと」
門脇篤


 この作品は、さる7月7日、七夕の日に、各地で行われた私のささやかな「プロジェクト」を展示するものです。私は知人をはじめとする人々に、次のような文書を送り、企画への参加をお願いしました。

プロジェクトへの協力のお願い
 7月7日、七夕の日に、ひとつのプロジェクトを行いたいと思います。それはそんなにだいそれたものでもなく、ただハガキ大のビニールの袋に、「願い」に関する文章と、その文章にかかわる物を入れて、どこかに飾っていただければいいのです。七夕が終わった後、みなさまにそれを送っていただき、私がそれをひとつの作品として提示します。

お願いしたいこと
 飾るものですが、サンプルをお送りいたします。作り方はいろいろあっていいと思います。すべてをアレンジしていただいてもけっこうですし、とりあえずモノだけ見つけていただければ、こちらで文章を考えますので、それをもとに修正を加えて決定稿をつくるなど。
 下の3つは、私がつくってみた例です。
 ・「わたしの願いは豆のようにたくさん」という文章とコーヒー豆
 ・「マッチの火が消えるまでに わたしは3つのお願いをしてみる」という文章とマッチ棒
 ・「わたしは願う 石が丸くなるまで」という文章と小石
 ただし、ここでつくる文章のなかみは、直接的な「願い」、たとえば「幸せになりたい」「健康であってほしい」などではなく、「願い」の感じや、願っているときの様子など、間接的に「願い」とかかわるようなものにしたいと思います。
 できあがったものを、7月7日にどこか気に入った場所に飾っていただき、できれば写真を撮ってください。そして七夕終了後、こちらに送ってください。

プロジェクトについて
 
お送りいただいたものは、無記名で、私のサイトにて公開するとともに、「中本誠司記念現代アート週間現代アート公募展」(会場せんだいメディアテーク、7月18〜23日)に、「七月七日に」と題したアート作品として出品いたします。 つづいて仙台七夕のおり、TANABATA.org art project 2003の中の「ロジアート」(会場サンモール一番町商店街、文化横丁、いろは横丁、8月6日〜10日)に、みなさまに作っていただいたものと同型のものを、商店街のお店の品物や、仙台・宮城ゆかりのものから作り、展示する予定です。

 最初、私が考えていた展示は、何かを記録するようなもの、流れゆく毎日を名づけていくようなものでした。たとえばその日見つけた何かと、ちょっとした短文とを組み合わせたようなものを、ひとつの小さなビニールに入れてコレクションしていく。するとそれが私の生きた具体的な時間として、目に見えるものとして積みあがっていくように思ったのです。
 それが、私にとっての日々から、みなに共通のある日付、というところへ行き着くのにそう時間はかかりませんでした。こうして私はちょうどやってくる7月7日をその日と決め、七夕にちなんだ「願い」を作品のキーにすえることにしたのです。
  これまでずっと私は、「私」のうちで完結している(ように見える)ものをつくろうと思ってやってきました。たとえば絵画はそういうものでしょう。それは確かに、題材を必要とする点や、鑑賞者を必要とする点で、他者の介在を許すものではあるけれど、いやならいやでOK、ハイおしまい、という、ある意味では厳しさが、またある意味では気楽さがあるように思います。気楽さというのは、気乗りしない「他者」を巻き込む必要や心配がないということで、その絵を描くことが私にとってどうして必要なのか、どうしてそれをおもしろいと思うのかを「他者」に対して説得する必要は、原理的にないということ、すべての根拠が「私がそう感じるから」という独我論的な世界の中で処理され、わからない人を「わからない人」にしてしまい、結局は「私」を共有する世界で生きる快適さ、都合のよさを、孤高と取り違えてしまうこと。理解してもらうことは、相手や自分のうちにある「他者性」を葬り去り、「みんな同じ人間なのだ」というまやかしへと進む道ではなく、「わからなさ」という棘を抱いたまま、ともにそこにいることでしょう。
 そうした意味で、私は「これが本当に意味のあることなのか」というたぐいの自問をさけてきたのだと思います(むろん私がここで言いたいのは、有意味/無意味という区分けについてではなく)。これは私にとって、そうした意味でとてもいい機会だと思いました。 この作品において、私は限りなく「無い」ものです。ほとんどが借りものかいただきもので、新しくつくるものはありません。私は何ひとつ創らず、ただお願いするだけでした。
 しかしここには何か誤解があるのかもしれません。そもそも私が何かを「創る」ことなどあるのでしょうか。むろん、日常生活の言語として、何かを「創造」したり、「新しく」創り出したりという言葉の使い方は多々見かけますし、それが何を意味しているのかを私は知っています。しかしたとえば誰かが、もうあらゆる様式は出尽くしてしまい、残っているのはそれらを組み合わせることだけだ、といった内容のことを口にするとき、それはそういった使い方を指しているのではないでしょう。そう解釈しなければ、ただショッキングなことを断定的に語る、もの知り顔の人間にしか思えません。
 私には、何か「新しいもの」をつくり出すとか、これまでになかった何かを生み出すといったことが、個人的な作業であるとは思えません。それはいわばそう「なる」のではないかと思います。そこにあるのは個人的な営みをこえたもので、いわばそうした個人個人の視線をずらす作業を指して使われるのではないかと思うのです。だからもう新しいことなどないし、まだ新しいことはたくさんある。
 しかしこう書いたからといって、私が個人的な世界や営みよりも、集団的なものを重視しているなどとは思わないでほしいのです。そんなことはひとつも言っていません。もっとも個人的な世界や営みは、他人には理解できないと私は言いたいのです。それゆえにそれは「新しいもの」とか「独自の視点」などにはなりえない。そういう次元とはちがう次元のものだと思うのです。そしてもっとも個人的なものが他人と共有できないからといって、個人は集団をつくれないわけではありません。当然のことながら、事態はその逆で、共有できないものがあっても、あるいはあるからこそ、私たちはともに集うのです。
  ところで、「願い」「願うこと」は、私の文脈では「祈り」に近いものかもしれません。それは私が思うに、「願い」が、何を願うのか、という内容に重きが置かれているのに対し、「祈り」が、祈るという行為そのものを主眼としている点にあります。七夕の願いごと、というのはどうでしょう。それは天空のふたりが、一年というものその再会を願いつづけたその持続性みたいなものに対してわれわれが感動し、それをまねることではないでしょうか。つまりそこにあるのはわれわれの生々しい願いごと、たのみごとではなく、何かを願う人をまねる行為、それと同一化することでそれを理解しようという試みなのではないでしょうか(いちおう断っておくと、何かを願う生々しい行為、生への意気込みを私は決して否定しているのではありません)。そういう意味で、私は願いそのものを描くことよりも、願う行為自体を描写する企画をしたいと思ったのです。
  そしてまた「願う」ということは、認識のあり方をずらすことにつながっているのではないでしょうか。何かを願うとき、そこにはすでに「こう」ある世界と、もしかしたら「こう」ではない世界とが、同時に想定されています。つまり、「…とは〜である」ではなく、「「…とは〜である」ということになっているが、そうでないことを想像することができ、なおかつ私はそれを願っている」ということです。
  「我思うゆえに我あり」を皮相的に援用するなら、「我願うゆえに我あり」ということができるでしょう。そしてそれは「我思う」を根拠に都合よく大量生産されていく独我論的な世界を、拡大再生産していくことに過ぎません。これに対し、この言い回しは「我思いつつ我あり」と言っているに過ぎない、と批判するならば、願いに関しても同じことが言えるでしょう。しかしいずれにせよ、これらは私に言わせれば、やはり独我論的です。
 私が思うこと、私が願うこと、それが他者との間に投げ出されることが必要なのだと思います。投げ出されたその瞬間、「私」にしかわからない私的な物語や世界が消えうせ、そこに存在が姿を現す。共同主観的な世界について語っているのではありません。それが受け入れられる/受け入れられないにかかわらず、そうすることが、閉じられた世界を突き破るのです。

 

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